私について これまでの歩み 着想の種
ひとりで過ごせるし
人とも過ごせる。
細かいことを気にしないし
細かいところも気にできる
なかなか物事を決められないが
可能性を探っていると考えている。
子どもの頃から、山の中や水辺など、自然の豊かな場所に心を惹かれてきました。
光の移ろいや風のかたち、偶然に生まれる造形の中に、
人知を超えた秩序や美を感じることがあります。
人の脳や能力は、人類の誕生以来ほとんど変わっていないとも言われます。
それでも、私たちはそれぞれの土地で自然と向き合い、
そこから感じ取ったものを心の奥に蓄えてきた。
その蓄積こそが「感性」と呼ばれるものなのかもしれません。
生き物は生き物だけで生きているのではなく、
自然の大きな循環の中に生かされている。
だからこそ、自然に美を見いだし、問いを抱き、
畏怖や畏敬の念を覚えることは、
人としてごく自然なことなのだと思います。
物質と偶然のあわい
(技法に関する補足文)
印刷会社で働いていた頃、
大量のインクを扱う中で偶然に生まれる重なりや流れの美しさに惹かれた。
ヘラで擦りつけた色や、刃を伝って流れるインクは、
作為では生み出せない秩序を持っていた。
その体験は、今の絵画にも息づいている。
不作為の中に立ち上がる必然、
重なる色が空間を生み、記憶を呼び起こす。
絵具の流れを受け入れることは、自然や時間の摂理と共に描くことに近い。
私はその偶然の中に、絵画の呼吸を見ている。
ステートメント
私の絵画は、木々の立ち姿や葉のざわめきからはじまり、
やがて大地の奥へと視線を沈めてゆく。
その先に見えてきたのが、楯築遺跡という、古代の記憶を湛えた場所だった。
出雲や大和に先立ち、日本というかたちの胎動を感じさせるこの地は、
自然と人間、時間と記憶が幾重にも重なり合う「層」のような存在でもある。
私はかつて印刷の仕事に携わり
、インクが重なり流れていく瞬間に、偶然が生む美しさを見てきた。
その体験が、現在の絵画にも通じている。
絵具の重なりや滲み、意図と不作為のあわいに、
私たちが立つ世界の「層」そのものが現れると感じている。
自然のかたちを描くことは、記憶の層を掘り起こすことでもある。
それは過去の遺構を描く行為であると同時に、
いまを生きる私たち自身の「根」を
問いなおすことでもあるのだ。
椿 苑



